日本における信託の歴史(信託法と信託業法)
日本ではいつから、どんなかたちで信託が利用されているのでしょうか。日本の歴史をご紹介します。
イギリスからアメリカ、さらに日本へ
現在の信託制度は、イギリスに生まれ、アメリカで発展した制度が明治後半に導入されてできたものといわれています。
法律に「信託」という言葉が初めて登場したのは、1900年(明治33年)。日本興業銀行法に「地方債券、社債券及株券ニ関スル信託ノ業務」と記されたのが最初になります。
1905年(明治38年)には担保附社債信託法が制定され、有力銀行が営業免許を受けて、担保付社債信託業務を行うようになりました。
日本の場合、まず最初に事業会社を対象とする信託制度が導入されました。一方で、個人の財産の管理・運用を専門に取り扱う信託会社は、1906年(明治39年)に設立された東京信託株式会社だといわれています。
1922年(大正11年)「信託法」「信託業法」の制定と日本の信託制度の確立
日本では、第一次世界大戦(大正3年~)をきっかけとして好景気を迎え、信託会社も数多く設立され1921年(大正10年)末には488社を数えるまでになりました。
しかし、当時は信託に関する一定の概念も、法制の整備もなかったために、業務内容も様々で、資力や信用力が不十分な信託会社も少なくありませんでした。
そこで、信託の概念を明確にし、信託制度の健全な発展を図るために、1922年(大正11年)に「信託法」と「信託業法」が制定されました。これにより、日本の信託制度は確立され、本格的な発展期を迎えたのです。
戦時中は兼営法で信託会社と信託銀行が合併・集約される
第二次世界大戦の戦時体制の下で、経済に関しても厳しい統制が進められるようになり、金融機関や信託会社の統合も進められました。
1943年(昭和18年)には、「普通銀行等ノ貯蓄銀行業務又ハ信託業務ノ兼営等ニ関スル法律(現在の兼営法)」が制定されました。それを機に、信託会社と銀行との間の合併や、信託会社の統合が進み、戦争が終わったときには専業の信託会社は7社となりました。
戦後の高度成長の中、大きな役割を果たす
戦後、政府およびGHQ(連合軍総司令部)の方針もあり、1948年(昭和23年)には信託会社が「銀行法」による銀行に転換。兼営法によって信託業務を兼営する信託銀行となりました。
戦後の経済復興のため、電力、石炭、鉄鋼などの基幹産業向けを中心とした長期の資金の安定供給が必要になったことで、1952年(昭和27年)には「貸付信託法」が制定。信託銀行による貸付信託の取扱いが始まりました。貸付信託は、戦後の復興期~高度成長期を通じて、産業界への長期資金の供給源として大きな役割を果たす一方、比較的高利の安定した長期の貯蓄手段として、広く国民から受け入れられました。
多様化する信託
こうした中、昭和30年代後半より、信託の仕組みを利用した新しい商品の開発が積極的に行われ、次の信託の取扱いが開始されました。
- 適格退職年金信託 1962年(昭和37年)
- 厚生年金基金信託 1966年(昭和41年)
- 財産形成信託 1972年(昭和47年)
- 特定贈与信託 1975年(昭和50年)
- 公益信託 1977年(昭和52年)
さらに最近では、2001年(平成13年)年4月の資産流動化法のが改正により、金融機関や企業の財務体質の改善や資金調達の方法として、貸付債権、売掛債権、不動産を流動化する「資産流動化信託(金銭債権の信託、不動産の信託)」の活用が推進されました。
また、新たな年金制度の整備も進み、2001年(平成13年)からは「確定拠出年金信託」、2002年(平成14年)からは「確定給付企業年金信託」の取扱いが開始されました。
戦死した藩士の供養に用いられた信託
アメリカから日本に信託制度が導入されるよりも前の日本においても信託の考え方がありました。
加賀藩では、大坂冬の陣(1614年)で亡くなった藩士の供養を行っていました。この供養を行うために用いられたのが、信託の考え方です。
ある時、特権町人の越前谷治郎兵衛、越前谷孫兵衛、平野屋半介の3名宛てに、前田家老臣・横山城守長知と本多安房守政重の連名による申渡書が手渡されました。
そこには、加賀藩が宝円寺に寄進した米100石を3人の商人が年に利息4割で運用し、そのうちの3割(30石)を供養料として宝円寺に納め、残り1割(10石)を3人の商人が手数料として受け取るという内容が書かれていました。
この場合、戦死した藩士供養が信託目的であり、委託者が加賀藩、受託者が3名の商人、受益者が戦死した藩士の眠る宝円寺という信託関係になります。加賀藩は、こうした信託に似たしくみを利用し、歴代諸侯の廟堂の傍らに、大坂の陣で戦死した41名の位牌堂を建てています。